エッセイ


「インドと私」

 

大学卒業と同時にインドに旅立った。 

 

 学生時代に中国やネパールを旅行し、次に興味を持ったのがインドだった。

1999年、酷暑期のインドの気候は猛烈で、平均気温は40度を超えた。

私の中の将来への不安や曖昧な思いは、焼けつく大地の中にあって

くだらないもののように思えた。 人の体温よりも高い気温の中で、

生きていることをありありと実感できた。そして、その暑さの中で

生きる人々に魅了された。

 

 インドには様々な宗教があり、歴史や文化と深く結びついている。

日々、多くの人がそれぞれの祈りを捧げている。祈る形は違っていても、

富める者、貧しい者が等しく何かを求め満たされない人間の

悲しみや喜びがそこにあった。

 

以来インドへの旅を重ねている。

                  2016年個展「大河のうた」より

「河」(2017年)F30   



「眠る男」(2015年)40P    


「はだかの男」

 

インドで出会ったある男の姿を、今も忘れることができない。私に「ブラダー、ブラダー。」と話しかけてきたその男は、痩せた体にボロボロに裂けた腰布だけを巻き付けていた。若そうだが顔にはしわがあり、肌は他のインド人よりも黒かった。寺院の裏に続く山道に横穴を掘って住んでいるという。行ってみると、手で掘ったかのような今にも崩れそうな穴だった。

 

男は、地面に枯木を集めて焼いたパンを私に勧めてくれた。少しためらいながらも、食べてみると思いのほか美味しかった。その時、行き交う人の中の一人がこの男に対して蔑む言葉を投げかけてきた。そして、私に対してもそんなゴミを食べると体を壊すぞ、と忠告してきた。男からは急に表情が消え、下を向き地面を手で掻き始めた。彼のような生活をしていれば、罵倒されたり、軽蔑のまなざしを向けられたりするのは常だろう。ただ、親しくなった私といる時に罵声を浴びせられたことに、深く傷ついている様子だった。隠したいことや人に見られたくないことは誰にでもある。しかし、隠す術を持たない彼ははだかであった。

 

はだかで生きることは容易ではない。彼が赤裸々に生きる姿は、私にとても尊く感じられた。良く見られたいと空回りしている時、彼を思い出し私自身に問いかけている。余計なもので自らを守っていないだろうか、正直に生きているだろうかと。

                 

               『新美術新聞』2021年10月21日号「美友人」欄掲載

             



  「落日」15.8cm×45.4cm(WSM)個人蔵

                                                                            

「火葬場」

 

 インドの村や町には、川沿いに火葬場をもつ寺が必ずある。そこでは生と同じように死もありのままにさらけ出されている。遺体は薪で燃やされ、その灰は家族によって川に流される。伝統的に墓はなく、死者を自然に還すことがヒンドゥー教の一般的な弔い方となっている。

 

 ベナレスにも二か所の火葬場がある。その一つマニカルニカ・ガートには黒々と煤けた五堂式の寺院があり、そこからガンジス河の水際までが火葬場となっている。次々と運ばれてくる遺体を焼く火が絶えることがない場所である。人を焼いているところを描くことには躊躇したものの、この聖地でも特に重要なガートであり、避けずに取り組むことにした。

 

 マニカルニカ・ガートには、至る所に燃料の薪が積み上がっていた。そして、死者を焼く白い煙がいくつも立ち上っていた。遺族は煙と炎に包まれた遺体を、静かに慎み深く見守っていた。女性は入れないのかそのほとんどが男性である。そして、傍らには次の番を待つ遺体が布にくるまれて置かれていた。他の場所のように腰を下ろして写生することはできなかった。歩きながら様子を観察し、裏道に行っては写生に手を加えることを繰り返した。

 

 しばらくすると、小柄な青年が近づいてきた。一瞬身構えたが、ラーマと名乗るその青年は意外に好意的だった。誘われるままについて行くと、火葬場の横に建つ建物へと案内してくれた。ここで火葬されることを望む人が、命が費えるまで暮らすための場所だと説明を受けた。入り口が薪の山に隠れていて分かりづらく、地元の人と一緒でなければとても入れない場所である。3階建ての建物の窓にはガラスがなく、殺風景な部屋を風が吹き抜けていた。私が入ったときは、老婆とその家族が一組いるだけだった。

 

 屋上に上がると火葬場の様子がよく見えた。こちらの疑問を察してか、ラーマは色々と説明してくれた。布にくるまれた遺体は一度ガンジス河の水に浸してから焼くこと、薪は金額によってその量が異なること、死者の生まれや階級により焼く場所が決められていることなどであった。近くの住人であるラーマにとっては、この火葬場も日常の一部のようだった。

 

 日が暮れて辺りが暗くなってきたため、写生を終え建物の外に出た。昼間とは違い、火葬の炎が闇に印象的に浮かび上がった。喜びも悲しみもついえた人間の最後の瞬間に立ち会っていることに、不思議な感動があった。陰鬱さを感じなかったのは、本人が望む最期を家族の手厚い関わりによって遂げているからなのかもしれない。このガートで火葬されたものは、輪廻の苦しみから解脱できると云われている。煙と灰になって昇天するかのような死者の姿に人間も自然の一部であることを実感した。

 

 火葬場を写生したのはこの一度きりである。

 

                   個展「ガンジス河を巡る」パンフレット掲載

                                                             



「緑陰」(2021年)M10     

「バナナカレー」

 

 八年ぶりにインド東部ビハール州ヴァイシャリを訪れた時のこと。以前と変わらない田園風景は太陽に照らされて輝き、刈り残されたマスタードの黄色い花が風景に彩りを添えていた。電線はあるものの昼間の数分しか電灯の点かない寒村である。夜には月と星と灯の光しか存在しない。 

 

 村の中心部まで来ると若い小柄な青年が近付いてきた。彼が色々質問をしてきたので、八年前に泊まる所や食事を用意してくれた人の名を告げた。すると不審そうな青年の態度が一変した。その様子から、私の前に立っている青年がソヌであると分かった。彼は当時近所の子供たちに英語を教えていた少し頑固な少年で、滞在中は毎日夕食に誘ってくれた。 

 

 この日も夕食に誘われソヌの家を訪ねた。ソヌの母も私のことを覚えているという。ソヌが好きだというバナナカレーは、バナナを皮ごとぶつ切りにして煮たもので、見た目は地味だが、甘さと豊かな香りがスパイスと調和し、皮もそのまま食べられ見事な味だった。インド各地で味わったどのカレーよりも、このバナナカレーは美味しかった。 

 

 庭の青いバナナで作ったカレーには、久しぶりに再会できたソヌの率直な気持ちが溢れていた。突然の来訪者に対して、飾らず、あるものの中で精一杯のことをしようとしてくれたことが心に残った。忘れられない旅の思い出の一つである。 

         『新美術新聞』2016年9月21日号「日々好日」欄掲載